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ぼろみけブログ

不安障害と自律神経失調症とHSPと・・・自分の人生を生きたい

らしくない、から生まれる らしさに気づけ


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自分らしさがわからない。って記事を書いたことがある。

自分軸を模索しているときに、はたと気づいたこと。

これが自分!というのがわからない。ぶれない軸を持ちたいのに。

これってつまり、自分らしさに気付けていないということ。

kariari.hatenadiary.com

 ↑の続き↓

kariari.hatenadiary.com

 最終的に、自分らしさを知ることは「自分がどういう人間でありたいかってのを突き詰めて考える行為なんじゃないか」という考えを導き出した。

どういう人間でありたいか。うーーーーん

 

悟りでも開きますか、ってなくらい難しい話をしてしまったと思う。あは。

 

 

こんな風に路頭に迷ってる私に廻ってきた文章がある、アンテナはって暮らしていると、何かしらどこかしら、ヒントを拾えるもんだなと思う。

『ここは退屈迎えに来て』や『アズミ・ハルコは行方不明』の作者、山内マリコさんの文章だった。

自分らしさって、自分らしくないことをやって初めて発見するものだと思っていて。「あれ、違うかも」という、ちょっとした違和感ですね。

(中略)

自分は社交的な人間だと思っていたのに、友達が増えれば増えるほど疲れる。実は社交的な人に憧れているだけで、私には友達はそんなにたくさんは必要ないんだ、とわかりました。

そうやって「らしくない」ことをやった果てにだんだん見えてくるのが自分らしさだと思います。トライアル&エラーで己を知っていく、それはすごくおもしろいことだし、失敗しないとわからないことでもある。なので、「失敗を恐れずに」なんていうとありがちなんですけど、それしか方法はない気がします。

おお~。おお~ですよ。おお~そうか~それしかないんですね~(困)

で、さっそく今まで経験してきた「あれ、違うかも」の感覚を振り返ってみたわけです。そしたら、

・・・違和感しかない。

違和感しかなかった、これまでの人生。

 

それは言い過ぎか。

 

でも、高校時代は違和感の連続だった。

この人は自分に合う、と思ってつるむ人たちはみんな、何か違ってた。

なぜか、特別仲良くしようと思ってなかった人とはしっくり来る。この人は別に、と思っていた人からは猛烈に好かれ、仲良くしたいと思う人には離れられる

そんな感じだったと振り返って気付く。遅いよ。

つるむ人を選ぶとき、なんだか周りの目もやたら気にしていたように思います。友達に選ぶなら、なるべく明るい人、かわいい人、クラスで人気のある人。スクールカースト上位の人。

それで私は見事にリア充グループ(こんな書き方で伝わるかな?)に混じっていたんですけども、所詮、わたしは基本的に大人しく居たい人間であったし、大勢で騒ぐより仲のいい子としんみり語り合いたい人間だったんです。今ならわかるよ。遅いよ。

なんて言うかな、

暗闇でぽっと火が灯ってるような静かな場所にいたのに、ある日を境に四六時中太陽の日浴びて歌って踊らされる羽目になった

みたいな。羽目になった、とか書いてるけどそういう学生時代を選んだのはほかでもなく自分で。

そうなりたい(学校でキャーキャー楽しくやってるリア充女子でありたい)自分と、大人しくしていたい自分のせめぎあいだったんだな。毎日とても疲れていた。

 

「こうあるべき」という抑圧は、外からもたらされるのもしんどいけど、自分で自分を押し込めて苦しんでいる状態が一番手ごわいかもしれません。

私は「家事は女性がやるもの」といった女性の役割への決めつけを否定したいけど、「女の人は家事ができて当たり前、料理がうまくて当たり前」、なのに自分はそうじゃない……と一人で落ち込むときもあって、そこから解放されるのって難しいなぁと思います。「こうあるべき」にちょっと憧れているところもあるのかなって。たしかに家のこと何でも完璧にできる人に憧れてはいる。だけど、そうしようとすると苦しくなるんだったら、その憧れを捨てるというか、憧れている自分を裏切って、自分を解放していくのも手だと思います。自分を不自由にしている思い込みや刷り込みを破ろうとするのを、続けていくことですね。

 

これ読んでて思ったけど、自分らしさを意識する前に「自分はこうあるべき」という考えが先に出てきちゃうものなのかなと思いました。私がそうであったように、そうであるように。

 

高校時代の自分に当てはめて書くと…

「明るくワイワイ青春を謳歌するJKであるべきた!!!」という考えに囚われて、間違った方向で自分を押し込め続けてしまったんじゃないかな。謳歌するなら謳歌するで、暗闇の中の灯りで、静かに謳歌することもできたはず。

恐ろしいのはその「間違った方向」という所に当時まっったく気づけなかったことだよね。あのときはもう、選択肢みたいなのがなくて、とにかく視野が狭くて、自分が作り出す偽自分を必死で演じることしか考えてなかったように思う。

もっといろんな自分を認めてよかった、知ってよかったのに。

 

今はこうやって、自分のこと、ああでもないこうでもないと考えることが出来るようになったから、こういう風に素の自分とのズレに気づけなくてシンドくなるというのは無くなっていくんじゃないかな。

自分らしさを分かった上で、こうありたいな〜と思うのがスムーズなんじゃないかと。ベストなんじゃないかと。

こうありたいな〜の気持ちと伴う行動が、シンドさを軽くしてくれるのかな。と、この文章を読んでて思いました。

 

それでも

今だって「健康なフリをしている自分」を演じて他人と付き合うシーンがたくさんあって、そういう時に実際の自分とのズレを大きく感じて苦しくなるんですよね。

こういう時の自分をどうやって解放すればいいか?

 

って話になってくるんですけど…

今、なんとなくの自分らしさを"病気に苦しむ自分"にしてしまってるんじゃないか?という何気にメチャ重い課題に気づいてしまいました。病気であるこのいつも具合の悪い自分が、自分らしさの一つになっているのでは。アイデンティティがこの病気と強く結びついてしまっている。。

 

この課題については、またじっくりと自分の中で考えていきたいと思っています。

 

長くなるので今回はここまで。

 

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